道南旅行記 小樽→ニセコ(20170828)

 

記憶が薄れてきている。

 

知らない街に宿泊した翌日はつとめて朝はやく起きて散歩するようにしている。母から教わった習慣だ。おさない頃、割に旅行する家庭だった。彼女はほんとうに旅行が好きなのだろう。それはこんな習慣として、しだいに似る箸の上げ下げの癖や移る口調のように、ぼくのなかに染み入り、ぼくの習慣となりつつある。

 

ひとびとに見せるための街とは反対の方角に歩いた。

小樽の観光地としての堅牢な洋風の港町としての表情ではない、間隙のようにたとえば旧日本軍の秘密の工場じみた建物(しかも廃墟と思いきや、鉄の扉に耳を近づけるとゴウンゴウンと低い唸りが聴こえた)や、家宅、商店などがまだひとの生活の気配をまとう以前の表情をしていた。バスに乗って小樽から余市へ向かう。札幌、小樽間までと、小樽以南では電車の本数が文字どおり桁が違う。バスの車窓から眺めた岸を洗う日本海をおぼえている。以前、福井出身の知人が、朝に東京の冬空を見上げて、太平洋側は冬でも陽が射すのがいいね、日本海のほうではずっと灰色に曇っているから、と訛りつつ呟いたのを思い出した。夏でも薄く灰色の。

体調が悪かった。背後の席で、年嵩の男が、若い女に、フィッツジェラルド羊たちの沈黙の話などを講釈じみた口調でずっと喋りつづけていた。女は感心した調子の相槌をうっていた。いささかも皮肉やわざとらしさのない、ほんとうに感心しているみたいな調子が詰まらなかった。余市町は寂しい町だった。男女は足早にウィスキー工場の方角へ消えた。なまじ生活を偲ばせる建物と半端な車どおりがある所為で、寂しい町という言葉が曳いてくるイメージのような抒情がなく、みすぼらしい印象の町を塞ぐようにそびえる石造りの門と壁が強制収容所に似ている。

 

工場の見学前に水を飲んだが、有料試飲のコーナーで「余市」のカスクストレングスを煽ったらきれいに忘れた。かつて千葉に住んでいたというバーテンダーと雑談しながら、結局五杯くらい飲んだと思う。でも先に有料コーナーで飲むと、無料試飲が味気なくなるのでおすすめしない。

 

購買では余市ソルティ&ピーティを買って、スキットルに注ぎ移した。どうしてか旅のさなかにスキットルで飲むための酒を選ぶとなると、ピートを焚いたアイリッシュ寄りのウィスキーに決めてしまう(あとバーボン)。バニラやナッツの風味や、シェリー樽のはどうもぴんとこない。ワンマン電車に乗り、ロイズのチョコレートを食べながら酒を飲み、乗り換え駅の付近にあったスーパーで鮭とばを食べながら、さらに酒を飲みつつニセコに向かう。駅にはぼくのような観光客か老人ばかりがいたのに、電車の到着する10分ほどまえになるとどこからか学生たちが一斉に(マイクロソフトワードが動作を停止して、この先に書いた文章がぜんぶ消えた。もうやる気ない。おやすみ。)――あらわれて、慣れたしぐさで定期をかざして改札をくぐってゆく。彼らは観光客に席を譲り、自分たちは床に座ったり立ったりして、ほとんど全員が顔なじみのような気安さでお喋りをしている。これは遠目からの風景だが。なかの学生になれば、嫌なにんげんともかならず顔を合わせなければならず、しかも狭い空間に短くないあいだ閉じ込められるのはきっと苦痛のはずだ。ぼくは苦痛に感じる学生だった。ウィスキーを飲みながら左川ちかの詩集を読んだ。窓からは延々と緑の葉ばかりが映る。ほとんど山間を走っている。目の先の学生の男の子が、ふいにぼくの隣で立っている学生の女の子にお菓子を投げて、彼女がそれをありがと、と掌で受け止める瞬間にわずかに身じろいだオレンジのナイキのスニーカー、その一瞬間は東京に戻ったあともずっと記憶に残っていて、九月の末に参加した詩の合評会に持ち込んだ詩の第二連に刻むこととなった。(それがこれ:

  https://www.dropbox.com/s/q7mfmpmn4zrlpqb/%E9%9F%B3%E6%A5%BD.pdf?dl=0

 

ニセコ駅ではあらかじめ電話で予約しておいたニコッとバスなる予約制の乗り合いバスを利用した。たまに観光客のおとずれる田舎らしい手段だ。200円で、それなりの距離を走ってくれる。宿はニセコアンヌプリという山を登った場所に位置している。宿に着いてすぐに眠り、起きても本を読んだり温泉に浸かったりゲームをしたり、碌なことはしなかったが旅行がそれなりに過酷であればあるほど、宿はそれなりに良いランクであるほうがありがたい、と思った。

 

 

以上のような事柄を、いったん書き始めていたからには終わらせないと落ち着かない、という思いもあるので再開したけれど、こういう記述は日記にでも書けばいい、という気持ちが日に日につよくなって中断していた。そして非公開の日記をはじめて一か月経過した。そこでは記述を引き延ばすひつようすらない。じぶんの為の備忘録なのだから記憶を触発さえできれば充分だ。半端でも公開してしまえば、そういうわけにもいかない。目的意識(コンセプト、今日的な言葉をもちいるならコンテンツ性)を明確にしてゆくほどやる気があるわけでもなく。

 

とりあえず北海道旅行の記憶をほじくり終えたら、きっとしばらく書くことはない。

道南旅行記 札幌→小樽(20170827)

  朝に友人に駅まで見送ってもらい、別れたあと札幌近代美術館に行く。ゴッホ展をやっているという。開館前の時間だというのにひとが幾らかいる。東京では新宿に行けば見られるのだけれど、地方はそうではない、その熱気に、期待を膨らませたせいで寝不足のまま、大宰府九州国立博物館ゴッホ展に足を運んだかつての日を思い出した。

 昨晩のお喋りと旅行の寝不足で、あまり絵に身が入らなかった。不遇の天才という伝説を取り除いたとき、ぼくの目に映るゴッホは過剰に絵具を厚く塗り事物の色彩と存在感を、レンズの歪みに映るほどけばけばしく際立たせる、そんな画家であるのに尽きる。要するにセザンヌピカソに感じるようには、その天才性がわからない。

 美術館の二階のフロアで仮眠をして、それから常設展の幾つかを眺めたあと、札幌駅から小樽行の電車に乗った。駅のホームで豆パンを食べた。手でちぎるとなかに餡が入っているわけでもない、白いパンだった。失望気味にかじると、豆が異様に甘く、餡がなくとも餡パンのように甘い。

 

 小樽に行く電車のなかで左川ちかの詩集を読む。

 彼女はその付近の余市町で生まれた。ふいに電車がカーブして、車窓に海が見えた。小樽は港町だから、それはあたりまえのことなのに、その瞬間にあらわれた海に意表をつかれ、揺れる海岸沿いにサクラソウに、思い出のような親しさをおぼえた。そして、左川の詩はどことなく海沿いに生まれたひとの詩だ、と思った。

 

 小樽駅に着くと北方領土返還運動の横断幕が歩道橋に掲げられていた。

 小樽の路地はさらに海が見えなくとも海沿いの街独特の匂いがした。錯覚だろうか。けれども観光の為に古い石造りやレンガ造りの建物の並んだこの港町は、そのコンセプトといい、門司によく似ていた。大通り沿いに洋服の青山が建っていることさえ、どこか懐かしい光景に思えて。前日にYが、かま栄のかまぼこが美味しいと言っていたのをおぼえていた。店舗限定の揚げたてかまぼこが美味しかったので、買い足して、宿で食べようと思った。ルタオで甘いものも食べた。鮨屋がたくさんあり、どこにも観光客がいた。土産物を売る通りにはヴェネチアからの直送だという硝子器具店の数々と、地図によればオルゴール店もあった。それも地元に似ていた。観光地の俗悪な没趣味の気がして、ふいに醒めた。

 

 港は灯りに輝き、写真を撮る観光客を集めていた。多くが友人と恋人といた。観光客でひとりなのは自分だけのような気がした。

 

宿ですこし眠ったあと、空いていたすしざんまいで食べたけれど、日ごろ回転鮨を食べるのでもないから、特段美味しいのかまでわからなかった。ふつうに美味しかった。コンビニで買った地域限定のサッポロビールを飲み、夕方に買ったかまぼこを食べ、うとうとしながら読んだ詩集は殆ど内容をおぼえていなかった所為で、翌朝はまた就寝前に読んだところから読み返すことになった。

道南旅行記 東京→札幌(20170826)

 10:10分離陸の飛行機に間に合うだろうと8:30分頃に高を括って家を出たら、来る電車の塩梅で09:58に着いた。成田空港の腸のようにうねった広い通路を息を切らして走った。間に合うわけもなく。事情をカウンターの受付に話すと、計らいにより二時間後の飛行機に追加料金なしで乗せてくれる、とのこと。深々とお礼をした。カウンターの隅には四人ほどの男たちが、ぼくの来る以前から抗議をしている。偉いやつを出せ。おれたちは客なのに、なんでお前らが客みたいに威張ってんだよ、とかを怒鳴っている。いずれも背はさほど高くないが肩幅がひろい所為でかなり威圧感のある肉塊に見える。短パン姿で、髪はみじかく刈り上げいちばん声の大きい男はスキンヘッドだった。いずれの男たちも焼肉みたいによく日に焼けていた。空港の購買で、行先で会う予定の友人への詫びにうなぎパイを買った。

 

 

 飛行機に乗ると習癖なのか眠くなる。起きるとまだ飛行機が空を飛んでいた。そろそろ着陸の気配があってもいい筈だが、と漠然と思った。通路を挟んで反対の席の子どもが、ぼくが寝入るまえと同じ文句を叫んでいる。ドラえもん見たい、ねえ早く北海道に着きたいのに何で着きたいの。そして勝手に30、29、28と数を大声でかぞえ出す。親が子どもにその秒数を課すことで無理にでも言うことをきかせようとするかのように。その気持ちはよくわかる。ぼくもいまだにあたまのなかやる。こころを落ち着ける為の幼稚な呪文として。

 ただいま新千歳空港周辺に雷雲が発生しており、着陸できない、と操縦室から連絡がありました、と機内アナウンスが入った。子どもは途中で数をかぞえるのをやめて別の欲求を叫んでいる。

 

 

 新千歳空港から電車で30分ばかりで札幌に着く。友人のYとあらかじめ打ち合わせていた場所で落ち合う。二年ぶりに、そして彼の住む北海道でははじめて会う。遅れたことを詫びたあと、駅構内の宮越屋珈琲で珈琲を飲む。さっきお土産屋で白いブラックサンダーを見たよ、と言うとYがなんかそっち(本土)のブラックサンダー、黒いのが売ってるらしいね、このまえ大阪で友人に黒いの貰ったけど、なんで黒いんだ、って思って……、と言う。

え、ブラックサンダーで黒いのがデフォじゃないの。

そうなの?

だって「ブラック」って書いてるじゃん。

ああそうか、言われてみれば。

 

 喫茶店を出て、北海道庁旧本庁舎へと向かう。

 珈琲を奢ってもらった。地上に出てYの背中について行きながら、札幌の街が碁盤の目状になっていることを教わる。たしかに北17西5のような看板が車道に出ていた。北海道庁旧本庁舎は、文明開化期の象徴のような赤々とした色の煉瓦の建物で、中には侵略者視点のアイヌの歴史から、適当にスペースを埋める為につくったみたいな北海道の名産品一覧みたいな展示までがあり、たくさんのひとが写真を撮っていた。ぼくも幾つか撮った。

 旧本庁舎のへ見学時間が終わり、施錠の時間に合わせて外に出る。旧本庁舎のちいさな日本庭園を散策する。川に泳いでいる亀を見つける。川を泳ぐ亀を間近に見たのははじめてなので興奮する。合鴨もいる。巨大な鯉もいた。Yに、鯉を食べたことがあるか訊かれ、いいや、ない、と答える。鯉は臭いんだよ、と教わる。一匹の鴨が陸にあがってきて、ぼくらの近くまでやってきて、地面を一心につつき、たぶん虫を食べていた。うっすらとした夕空の水色と赤色が、水面に混ぜ合わせた絵具のように反映していた。蓮の葉がたくさん浮いていた。その場所の写真は撮って後にTwitterに載せた。

 

 ジンギスカンを食べる為に、夕方の札幌駅前から徐々に離れて、すすきのへと差し掛かる。駅前の広大な車通りと高層ビルそのままに商業施設の看板が風俗店の看板にそっくり入れ替わった感じ。歓楽街にありがちな手狭さ、猥雑さがない。すべてがおおっぴらなんだよ、とYが言った。ホスト系の恰好のひとが多く、客引きか一般人なのか判別がつきにくい。Yの書く小説にはよくすすきのが登場する。そこから何となくイメージを形成していたけれど、実際の風景となるとそれ固有のおどろきがある。

目当ての店はメインの通りからすこし離れた地帯にあった。ジンギスカンはとても美味しかったので自分が少食であることも忘れて過食して、しばらく動けなかった。野菜も美味しかった。玉ねぎの最良の滋味。ぼくの指よりも太いアスパラガスの滋味。

 二軒目に飲みに行くまえに腹ごなしの時間をあたえられる。友人が音ゲーをしているあいだ、ぼくは消化をする。そして飲みに行く。商業ビルの高層で、窓からコカ・コーラの看板が点滅しているのが見える。店員も客も水商売のひとのように映る。友人が頼んだカクテルの名前が「ブレードランナー」で、コップの中にゆっくりと色を変えながら光るボールが入っており、やたら暗闇に映えている。ぼくはシーバス・リーガルのロックを呑む。あとで店の名前がElectric Sheepであることに気づく。その店のあるビルの一階は鰻屋だとYに教えてもらう。急にたくさんの風景が映画っぽく見え出して満足する。

 

 Yのある家まで地下鉄に乗る。地下鉄は揺れながら凄い速度で走っている気がして、なんか怖いんだけど、とYに言うと、おれもそんな気がしてきた、と言う。彼はふだんは当然ほぼひとりでその轟音のする地下鉄を乗り降りしている、という。最寄り駅に上がる際にセイコーマートに寄ってカツゲンと豆パンを買う。北海道に当たり前にあるものに執心するのでYが笑う。

 Yの家に行く前の道は国道が通っていて、やけに広い。ただの路地でさえ車二台が通れそうだ。冬になると除雪車が通るから、とYが言う。ぼくは除雪車をじかに見たことがないので想像するしかない。極寒地域の冬の生活感覚が、このからだには一切ない。

 彼の家でゲームをしたり小説について喋ったりする、そのうち眠くなって微睡んでいるときに、翌日以降の旅程で行く街の美味しいものについてYに教えてもらうけれど、翌朝ちゃんと覚えているか不安になる。食べ過ぎなければもっとたくさん喋れたのにな、と後悔する。翌朝起きてカツゲンを飲んで、豆パンは食べられないのでリュックに入れた。

犬をイヌと

 徹夜で本を読み、映画を観て、窓が水色に色づく時刻にねむりについた。夕方に起きる。ものがなしげな音楽と共に、スピーカーがすこし割れた声で、外で遊んでいる子どもたちに帰宅をうながしていた。図書館に本を返しに行く。


 家を出て、墨堤通りへと交るふたつ目の横断歩道を渡ろうとすると、通りの向こうで男性がしゃがみ込んで、しろい犬を撫でているのが目に止まる。犬を犬と目で判別するまえに、犬だ、と直感して、来た道を戻る。反対の通りからしゃがんでいる男性の背中をうかがう。彼が腕に提げているしろいビニル袋が見える。あれを犬と勘ちがいしたらしい。けれども男性の背中に隠れて、撫でられているしろい犬も、ほんのすこしの脚で、見えた。目よりも気配が、犬を捉えていた。

 

 それからまた別の通りで。わたしに背を向けて、わたしの歩みと規則はずれながら、遠くへ歩いているひとは、ふたつの紐を手で束ねて、犬を結んでいる。彼が通りを折れる。彼は、ビルの軒下のような場所に雨宿りのように佇んでいる。雨は降っていない。
 通りの向こうから、人間と、一匹の犬がやって来た。砲弾を撃ちながら迫る戦車のように、おおごえで吠え散らしながら歩んでくる。
 今度は、渡らなかった横断歩道まで戻って、渡ろうとする。背を向ける間ぎわに、晴れの夜空で雨宿りしているひとが、自分のちいさな犬を守るために嵐をやり過ごそうとしていることに気づく。

 

 幼いころ、母親の知人というひとの、おおきな家で食事をした。家の高い天井にはログハウスに設えられているような、三方に羽を放射している扇風機がゆっくりと回っていた。母親は当時、美味しい食事とワインを飲んだらしい。シャトー・ディケムのことを後年にも時々自慢する。わたしは中央が傷口とおなじ色をした程よい焼き加減の肉を食べた。記憶にある。それ以上に、脚もとを這いまわる、毛並みのよい大きな犬が怖かった。そういう記憶だけが前景にあり、犬の、ひと(いぬ?)の好さそうな好奇の目をいまでも思い出せる。

 

 一方で、ひととき仲の睦まじかったひとと次第に険悪になったとき、犬を飼っていた電話の向こうの彼女はワンちゃん、と呼び、わたしはイヌ、と言い続けた、かつての会話が話題になった。そのときの呼び名のずれについて、わたしは何も考えず、無造作に嫌悪の権利を享受していたが、そのひとに、その会話のときからわたしのことが嫌いだったのですか、と寂しそうに尋ねられたことを、すこしあとになって、思い出した。

明日への言い訳

 

 水曜日、仕事の帰りに微々たる量の宝くじを買った。ほんとうはスクラッチを買おうと思っていたけれど、売り切れとのことだったので仕方なくそうした。なんでもよかった。
 先週の木曜日に自販機で当たりが出たさいに職場の上司に、おお良かったやん、ついでに宝くじでも買い、と関西弁で言われたのが面白かったから、という購買理由だ。ヨーゼフ・ロートの『聖なる酔っ払いの伝説』みたいな発想だと思った。幸運にめぐりあったが故に行動を起こし、それが次々と予期せぬ、スラップスティックでさえある幸運にめぐり遭う、という発想。
 話は脱線するけれどここ数か月、ダイドーブレンド・ビターカフェショコラだけをひたすら購入している。これは自分の生涯における缶コーヒー史上でも稀なほどの当たり商品で、いわゆる(ジャン・ポール・エヴァンとかで飲めるような)ホットチョコレートを冷たくして既製品に落とし込んだような味がする。現在のところ、都内では自分が勤務しているオフィスビルの特定階の自販機と、昨日友人と五反野でラーメンと食べたあとの帰り際に発見した、見本がぼろぼろに白んだ自販機でしか販売しているのを見たことがない。

 くじを買ったあとの一日だけは妄想した。もし当たったらどうしよう?
 別に億とかじゃなくても、一千万くらいでもなかなかすごい額、だと思う。比較的、可処分所得のすくない人間にとっては、うん。
 そして、はやい段階で思い浮かんだのは、もし生活に余裕が出来てしまうと、生活苦から来る緊張感を手放すことになるだろうな、という考えだった。

 

 一時期の話だが、未来への生計の為に、現在を犠牲にするという行いを酷い卑怯のように思い做していた。腸が振動するような緊張感、嘔吐寸前の感覚をこらえている瞬間だけ、自己の為の一片の安住の土をも捨てたということで自己肯定をしていた。間尺に合わない行いに激しく依存していた。具体的な行いについてはここで書かない。ぼくを知るひとは、この抽象的な打ち明けが何に象徴されていたかを勘付くだろう。この時代に得た激烈な緊張の残余はいまでも生活に影を落としている。だが換言すれば、その緊張に耐えている為に、今日のぼくは明日を繋ぐことへの懊悩から免れている。
 経済的余裕を得るとは自分にとって、この緊張から一気に解放されてしまうことだ。そのことに耐え切る自信があまりない。

 

 どうやって皆、「普通」に耐えているのだろう。明日へと身を繋ぐのに過剰な言い訳をひつようとする人間は少なからず存在する筈だ。

 

 そういう考えを延々と引き延ばしていったとき、索漠としたこの世において他者と共同体を形成し時には子供を設けるという営為は、見方しだいでは生活に緊張感をもたらし、今日から明日、明後日どころか五年、十年後へとわが身を繋いでゆくことを肯定する為の強力な言い訳であるような気がした。

詩「円」

 以前に書いた詩を某詩手帖に投稿し、落選しました。
 その詩が、以下になります。

 https://www.dropbox.com/s/7c6y6bhw467jbgk/%E5%86%86_%E5%BD%A2%E4%BB%A3%E5%BE%8B.pdf?dl=0

 

 結果はどうあれ現時点では自分の書いた詩のなかでは最良の部類なので一読頂ければ幸いに存じます。これに懲りず、しばらくは書け次第、どこかに投稿を続けるつもり。

光、再考

 嗜好、と呼ぶにはいささか頼りないものの、部屋の光量にはささやかな執着がある。はやい話、わたしは白色蛍光灯の光が苦手である。明るいほど駄目だ。まず目に痛い。人伝に聞いたところでは自律神経の不調というが、どうだか。

 

 部屋の光量について理想の建物を挙げるなら目黒の東京庭園美術館の旧館だ。別名、朝香宮邸。
アールデコ調の、柱、家壁、鈍い光沢を放つ調度品の数々、お伽の国の植物のような模様を刻まれた硝子、部屋ひとつを巨大な香水噴出器で埋め尽くしてしまう、何とも庶民には至らない豪気な着想、それでいて(記憶が確かなら)足音を深々と吸い込んでくれるボルドーのカーペットの敷かれた階段を昇った先にある、書斎やその他部屋はあくまで生活空間として程よい大きさに設計されて、ついちょっとばかし散らかしてみたくなる(たぶん使用人が片付けてしまうのだが)。セントラルヒーティングも、今日においては懐古趣味と童心を二重に掻き立ててくれる。
 だが、何よりも繰り返し思い出すのは、広大な部屋々々を照らす橙色のぼんやりとした光だ。目を射すことなく、そして建物をけばけばしいものではなく、やさしくからだを包んでくれる重厚な空間として表現してくれる。宮家の人間がどれ程、わたしのような庶民と心情における類似点があるのか、まったくさだかではないが、ともかくその光が、ほかの著名な建物とは異なり、朝香宮邸を「暮らし良さそうな家」としてわたしの目に映すのに寄与していることは疑いない。わたしの家ってことになんねーかなー。
 ほかにはヴィスコンティの映画『ルートヴィッヒ二世』に登場した宮殿も印象的だった。政務のすべてを投げだし、暗く、心地よい寝室に収まるルートヴィッヒ二世の姿に、つい同類を目にしたときのような苦笑が浮かんでしまう。

 

 2017年7月29日は目立って何もしていない。昼は閉めたカーテンの隙間から射し込む光で本を読み、夜はデスクライトの橙色の光だけで本を読んだ(60Wでもやや目に眩しいくらいだ)。途中、雨のなか買物に出た。帰りに、自分の部屋を含むアパートの窓を見上げると、自分の部屋だけがカーテンの隙間越しに、燃えているように光っていた。消沈して過ごす為の光なんだが。

 キラキラと見栄えだけは結構な没趣味のモデルルームみたいな美感に惑わされることのないよう、自分にとって心地よい空間を作ることについては、いつかもう少し突き詰めて考えたい。