語りの核、M氏の家

 正面玄関に行くまでにふたつの門をくぐらないといけないんだけど、最初の門が150センチくらいしかないので、大人は首をかがめないといけないのね。上下のしきたりはとにかく厳しくて、上座と下座に分かれて、下座の人間がむやみに上座のほうに足を踏み入れるだけで怒られたなあ。土間のなかには井戸があったよ、ふつうの、滑車のついたやつ。使わないときは柵状のフタしてたんだけど、フタしてないときはちゃんと水が汲めて、こう、綱をひくとカラカラと音がして水が汲めるのよ。……

 

 禁酒をこころみていた。が、二週間くらいで不可能だと悟った。金曜日の夜に北千住の街を歩いているだけで、酒にありつきたい衝動ではらわたが震えて、こらえきれなくなってビールを買ったり、ガード下の焼き鳥屋に駆け込んだりして一向に捗らなかったからだ。そういうしだいで、このまま肉を徐々に裁ちつづけて骨に到達するよりは、という戦略的撤退の判断により、昨日は半年ぶりに日本酒を買って飲んだ。禁酒の目的は旅行代を浮かせることだったけれど、まあ8月末までは何とか凌げるだろう、と期待している。人間、状況が揃わないかぎり無理なことがある。白米を一週間口にしなくても平気だが、酒は無理でした。どうも、ほんとうに、弱ったことで。

 

 知人のMさんは、見た目とりたててふつうの男性である。たぶん知人でもない人間が電車で隣り合っても印象に残らないだろう。

 標準語(いわゆる東京弁)で喋る。が、何かの折には関西弁で喋り出し、まるで「中のひと」が変わったかのような声音に、毎度おどろいている。奈良の出身だと称しており、その後も様々な地域を転々としたらしい。

 このひとが見た目からちょっと想像しがたいくらい、きれい好き(潔癖ではない、というのが彼の口癖)で、整頓からちょっとした所作までゆき届いている。板前をやっていたこともあるそうなんで、多分その所為だろう、とひとり合点していた。が、あるとき彼の身に沁みついた教育の行き届いたさまを褒めると、家が厳しかったんでね、とふだんは口にしないことを明かしてくれた。そして冒頭に掲げた和声の写しは、彼の父方の実家の描写である。京都の有名な某M酒造の家宅を、子供の目で見た記憶をもとに語ってくれたものだが、大人の目で、見物の目的を以て眺めた景色とは明らかに異質なものが、その語りのなかに潜んでいた。

 大げさに言えばこうした異化の目で見、その場の空気をも描き切るようにのびやかに語ることは、詩や小説における冒頭の展開やエピファニーの核の原石とでも言えるのかもしれない。Mさんの語り《スカース》により、確かにその瞬間、わたしも子供のころの彼の目になって、彼の見た断片的な風景を見たような気がした。本を読まなくても、ひとのなかにはそうしたものが時にひそんでいるのだ。

 他人のこういう話なら幾らでも聞いていたい。