犬をイヌと

 徹夜で本を読み、映画を観て、窓が水色に色づく時刻にねむりについた。夕方に起きる。ものがなしげな音楽と共に、スピーカーがすこし割れた声で、外で遊んでいる子どもたちに帰宅をうながしていた。図書館に本を返しに行く。


 家を出て、墨堤通りへと交るふたつ目の横断歩道を渡ろうとすると、通りの向こうで男性がしゃがみ込んで、しろい犬を撫でているのが目に止まる。犬を犬と目で判別するまえに、犬だ、と直感して、来た道を戻る。反対の通りからしゃがんでいる男性の背中をうかがう。彼が腕に提げているしろいビニル袋が見える。あれを犬と勘ちがいしたらしい。けれども男性の背中に隠れて、撫でられているしろい犬も、ほんのすこしの脚で、見えた。目よりも気配が、犬を捉えていた。

 

 それからまた別の通りで。わたしに背を向けて、わたしの歩みと規則はずれながら、遠くへ歩いているひとは、ふたつの紐を手で束ねて、犬を結んでいる。彼が通りを折れる。彼は、ビルの軒下のような場所に雨宿りのように佇んでいる。雨は降っていない。
 通りの向こうから、人間と、一匹の犬がやって来た。砲弾を撃ちながら迫る戦車のように、おおごえで吠え散らしながら歩んでくる。
 今度は、渡らなかった横断歩道まで戻って、渡ろうとする。背を向ける間ぎわに、晴れの夜空で雨宿りしているひとが、自分のちいさな犬を守るために嵐をやり過ごそうとしていることに気づく。

 

 幼いころ、母親の知人というひとの、おおきな家で食事をした。家の高い天井にはログハウスに設えられているような、三方に羽を放射している扇風機がゆっくりと回っていた。母親は当時、美味しい食事とワインを飲んだらしい。シャトー・ディケムのことを後年にも時々自慢する。わたしは中央が傷口とおなじ色をした程よい焼き加減の肉を食べた。記憶にある。それ以上に、脚もとを這いまわる、毛並みのよい大きな犬が怖かった。そういう記憶だけが前景にあり、犬の、ひと(いぬ?)の好さそうな好奇の目をいまでも思い出せる。

 

 一方で、ひととき仲の睦まじかったひとと次第に険悪になったとき、犬を飼っていた電話の向こうの彼女はワンちゃん、と呼び、わたしはイヌ、と言い続けた、かつての会話が話題になった。そのときの呼び名のずれについて、わたしは何も考えず、無造作に嫌悪の権利を享受していたが、そのひとに、その会話のときからわたしのことが嫌いだったのですか、と寂しそうに尋ねられたことを、すこしあとになって、思い出した。