(サ)マータイム

 一冊の詩集に三年もかけるなよ。金が無い? じゃあ金があったら毎年三冊出せるか? 俺は出せるよ。だからなあ、金をくれ俺に。俺ら一家に。経済的自立なんてどうでもいいねん。

 

                                                                      松本圭二アストロノート』より

 

 詩集を作るというのはかなり物入りである、らしい。自分で作ったことがないから末が淀んだ。その名がすでに碑銘であるような詩人の詩集以外はたいがい少部数で、増刷されないと見て間違いない。もしあなたが、詩にすこしでも興味があって、偶然ひらいた詩が何となくでも、よさそう(自分のもとめていたような語彙、配列、息遣いを持っていそう)だと思えたら、なるべく購入しておくことをお薦めする。読むのはいつでも出来るし。古書に出た一部で有名な詩集を買おうか買わないか、一日悩んでいたあいだに売り切れた、という苦い個人的な経験がある。
 大げさな構えで言う。詩集はいわば稀代の花に属している。わたしたちの生涯という不揃いな季節に、殆どはただ一度だけ咲く(花という比喩を愛好しすぎる欠点)。

 

 千代田線、国会議事堂前駅を降りると、旧い映像で見た省庁がそのまま生きて、目のまえにそびえていた(その時代の解像度が低いことは当然、その時代の人々のものの見え方の解像度が低いわけではない、だから案外、数十年前に同じ地に立った誰かと、わたしの見た景色は大差ないのかもしれない

 

 国会図書館に向かった。国会議事堂付近で、檄文の記された横断幕のある塀に腰を預けたまま、ゆっくりと宙に手を振りながら、交通整理でもするみたいに一定間隔で笛を吹いている短パン姿の男が、ひとの少ない風景に目立っていた。彼の視線の先には空っぽの大型バス三台が停車していた(見学の子どもたちがちょうど降り切って、バスの陰になっていた)。警備員ふたりが男に背を向けて談笑していた。どんな了解か高層の建物が周囲に少なく、空がふさがれていない。
 図書館は、詩を花に喩えたのだから、植物園みたい、と書きたかった。まったく似ていない。旧い時代に建てられた宿舎によく似ている。でも、ステンドグラスを嵌め込んだコンクリートに囲饒された本館内装や、値段まで時代の面影を残した喫茶店など、見どころは少なくない。
 詩集を三冊読んだ(斜め前で、初老の男が大きな赤い表紙の『ウィーン都市集成』をひらいていた

 安川奈緒『MELOPHOBIA』(思潮社
 杉本真維子『点火期』(同)
 小林レント『いがいが』(ミッドナイト・プレス)


 ここに来るまでに、一度入口を間違えた。議員用の入口から罪のない足で押し入ろうとすると警備員に止められて、ただしい道を教えてもらった。あの、赤煉瓦の道が、ございますね?
 ございますね、の響きが、これも旧い時代のテレビのナレーションにでもありそうな、いまではめずらしい抑揚で。意外なひとの口で、意外なことばが生きている。そして、やがて消える訛りなのだろうか(それは詩集よりも稀少)。その後も入館証を発行して、何をするにもその証明カードが入り用なのだが、発行の際に係り員に呼ばれ、勇んで席を立った際に財布を忘れる(おばちゃんが追いかけて渡してくれた)、入館証を探す為に財布を傾けて小銭を落とす、複写申請用紙を印刷したのに入館証ごとプリンタの傍に忘れる(係員に名前を呼ばれた)、等々と、けっこう散々だったのを、親切なひとに支えて貰った(皆さん、どうも、ありがとうございました)。

 

 

 夕方、駅前には昼に見なかった人々が、各々紙札を両手に提げて黙然とした芋虫みたいにまとまっていた。シュプレヒコール! の拡声を合図に、肢を蠢かすようにして、原発反対(楽器:ドンドンチャチャチャ)を唱えている傍をすり抜けて(『MELOPHOBIA』のあとがき。この世は音楽を愛しすぎている、と)、来た道を引きかえす。先週の記事に書いたSがまだ東京にいると知っていたので、落ち合って神田の中華料理屋でビールを飲んだ。
いつか学生時代の友人たちで旅行したいね。
でも労働形態がバラバラ過ぎて無理やろ。
 三年くらい言い続けたら実現するかな、
と、漠然とした計画について喋り、ついでにまだ夏と言い切れない微妙な季節に、わたしは、夏期には車両内に扇風機の回る香椎線からバスを乗り継いだ先にある志賀島の海の話をして、そこに宿泊するのも悪くはないという意見になった。いつでも少しばかり、どこかへ行きたがっている。

 


 (以上を書いてた昨晩、Amazonで小林レント『いがいが』が良心的な価格で古書として出品されていたので、即座に注文した。ブログを書くといいことがある。)