明日への言い訳

 

 水曜日、仕事の帰りに微々たる量の宝くじを買った。ほんとうはスクラッチを買おうと思っていたけれど、売り切れとのことだったので仕方なくそうした。なんでもよかった。
 先週の木曜日に自販機で当たりが出たさいに職場の上司に、おお良かったやん、ついでに宝くじでも買い、と関西弁で言われたのが面白かったから、という購買理由だ。ヨーゼフ・ロートの『聖なる酔っ払いの伝説』みたいな発想だと思った。幸運にめぐりあったが故に行動を起こし、それが次々と予期せぬ、スラップスティックでさえある幸運にめぐり遭う、という発想。
 話は脱線するけれどここ数か月、ダイドーブレンド・ビターカフェショコラだけをひたすら購入している。これは自分の生涯における缶コーヒー史上でも稀なほどの当たり商品で、いわゆる(ジャン・ポール・エヴァンとかで飲めるような)ホットチョコレートを冷たくして既製品に落とし込んだような味がする。現在のところ、都内では自分が勤務しているオフィスビルの特定階の自販機と、昨日友人と五反野でラーメンと食べたあとの帰り際に発見した、見本がぼろぼろに白んだ自販機でしか販売しているのを見たことがない。

 くじを買ったあとの一日だけは妄想した。もし当たったらどうしよう?
 別に億とかじゃなくても、一千万くらいでもなかなかすごい額、だと思う。比較的、可処分所得のすくない人間にとっては、うん。
 そして、はやい段階で思い浮かんだのは、もし生活に余裕が出来てしまうと、生活苦から来る緊張感を手放すことになるだろうな、という考えだった。

 

 一時期の話だが、未来への生計の為に、現在を犠牲にするという行いを酷い卑怯のように思い做していた。腸が振動するような緊張感、嘔吐寸前の感覚をこらえている瞬間だけ、自己の為の一片の安住の土をも捨てたということで自己肯定をしていた。間尺に合わない行いに激しく依存していた。具体的な行いについてはここで書かない。ぼくを知るひとは、この抽象的な打ち明けが何に象徴されていたかを勘付くだろう。この時代に得た激烈な緊張の残余はいまでも生活に影を落としている。だが換言すれば、その緊張に耐えている為に、今日のぼくは明日を繋ぐことへの懊悩から免れている。
 経済的余裕を得るとは自分にとって、この緊張から一気に解放されてしまうことだ。そのことに耐え切る自信があまりない。

 

 どうやって皆、「普通」に耐えているのだろう。明日へと身を繋ぐのに過剰な言い訳をひつようとする人間は少なからず存在する筈だ。

 

 そういう考えを延々と引き延ばしていったとき、索漠としたこの世において他者と共同体を形成し時には子供を設けるという営為は、見方しだいでは生活に緊張感をもたらし、今日から明日、明後日どころか五年、十年後へとわが身を繋いでゆくことを肯定する為の強力な言い訳であるような気がした。