聴こえない、鳴っている、

 立川が遠い。
 東京都足立区在住の人間の愚痴である。足立区が時計で喩えて1時を指す短針のほぼ先端だとすれば、立川は9時を指す長針のこれも先端だと言うことが出来よう。実際、両エリアは県境にも近い。東京の一極点から、もう一方の極点への移動。わたしにとって立川へ向かうとは、まる一日を潰す長旅を覚悟することを意味する。

 足立区の空はどこか冴えない。とにかく東京のなかでこれほど曇り空が似合う街もない。そこで中央線に乗り、武蔵境まで達すると、ふいに開ける空の色のやわらかさに、殆ど恐れをなしてしまう。異邦感というか、とにかくこの空はじぶんの頭上にふだん架かっている空とは違う、という疎外感にも近いものだ。
 中央線電車の車窓から射し込む光を憎悪する。つまりすこしばかり憧れている。

 

 とはいえ、そういう微妙な感情の感触を再確認する為に中央線に乗ったわけではなく、立川で映画『聲の形 ―inner silence―』を視聴する為だった。
 「inner silence」とは、トークショーでの同作の音楽担当である牛尾憲輔氏の言葉を引用しつつ要約すると、作品のコンセプトを踏まえたうえで試作版として作成した音楽をBlu-ray化および立川シネマスタジオでの上映の為に改めて練り直した音楽、であるそう。作品のコンセプトとは映画の主人公・石田将也の生き直しである。彼が人々とコミュニケーションを取り直すことで、世界のうつくしさに立ち返る為の、これは練習の過程であり、かつ世界は彼が発見するまえからうつくしかった――すなわち練習曲でありかつ曲としてのうつくしさを備えた音楽を、というコンセプトが立ち上がり、結果としてバッハのインベンションが採用され、さらには記号としてのピアノの音のみならず、鍵盤の重量感、ハンマーの軋み、響板が震え……といった、音を出す際にまつわるノイズまで曲に取り入れたいと志向し、ピアノのフェルトの一部がぼろぼろの、牛尾氏のご実家にあるというピアノによって録音、映画の為にミックスされたサウンドトラック(※)であるとのこと。これを、台詞音声抜きでBGMを差し替え、より本来のコンセプトに近い映像と音楽のもと鑑賞するという一日かぎりのイベントだったのだが、これは実際に映画館の席に着いたあとに知った。なので、皆さんこれがどういうイベントか理解してご来場頂いたのですよね、とトークショーの司会が客席に恐々尋ねたとき、わたしは理解していなかった客だった。

 

 かつて良い映画は音声を消しても鑑賞に堪えうる――却って音に気を取られず映像の運動が際立つという説を耳にしたことがあった。そして映画は、再見ということで当初幾つかの仮説を持ち込んで視聴に入ったのだが、序盤でまったく違うふうに視えてしまい、映像の差し出すものを受け取るのが精いっぱいだった。それは映画中で名前を与えられていない人々の表情の動きや、花と空の色味だけで表現される季節の移ろい、台詞がないことで饒舌になる人物のしぐさなど、だ。個人的には最序盤が印象的だった場面のひとつだった。後々に重要性を帯びたり、映画のなかでそれぞれ際立った役割を演じる人物が、自身の未来を知らない顔つきで、互いに緩やかな関係或いは無関係の状態ですでに画面に存在しているすがた。

 

 そういえば質疑応答コーナーがあって、ちょっとばかし質問してみたかったけれど、結局どう訊けばいいのかわからなかったので引っ込めてしまった。まあいいや。これを機に、いっそ字幕消して海外映画とか視聴すれば、映画の細部をなるべく余さず享受する練習になるかもしれない。映画の愛で方まだよくわからない。が、なんとかして愛でてみたい、恍惚としてみたい、と性懲りもなく望んでいる。漠然と視聴しては通り過ぎてしまった映画が、実はうつくしかったのだと気付く日をいつか、と。


(※・・・映画での登場人物の扱い方もそうだけど、このサウンドトラックの作成過程も、固有性を突き詰めるという方向性で一致しているのはお見事、とこれは個人的な感想。)