道南旅行記 札幌→小樽(20170827)

  朝に友人に駅まで見送ってもらい、別れたあと札幌近代美術館に行く。ゴッホ展をやっているという。開館前の時間だというのにひとが幾らかいる。東京では新宿に行けば見られるのだけれど、地方はそうではない、その熱気に、期待を膨らませたせいで寝不足のまま、大宰府九州国立博物館ゴッホ展に足を運んだかつての日を思い出した。

 昨晩のお喋りと旅行の寝不足で、あまり絵に身が入らなかった。不遇の天才という伝説を取り除いたとき、ぼくの目に映るゴッホは過剰に絵具を厚く塗り事物の色彩と存在感を、レンズの歪みに映るほどけばけばしく際立たせる、そんな画家であるのに尽きる。要するにセザンヌピカソに感じるようには、その天才性がわからない。

 美術館の二階のフロアで仮眠をして、それから常設展の幾つかを眺めたあと、札幌駅から小樽行の電車に乗った。駅のホームで豆パンを食べた。手でちぎるとなかに餡が入っているわけでもない、白いパンだった。失望気味にかじると、豆が異様に甘く、餡がなくとも餡パンのように甘い。

 

 小樽に行く電車のなかで左川ちかの詩集を読む。

 彼女はその付近の余市町で生まれた。ふいに電車がカーブして、車窓に海が見えた。小樽は港町だから、それはあたりまえのことなのに、その瞬間にあらわれた海に意表をつかれ、揺れる海岸沿いにサクラソウに、思い出のような親しさをおぼえた。そして、左川の詩はどことなく海沿いに生まれたひとの詩だ、と思った。

 

 小樽駅に着くと北方領土返還運動の横断幕が歩道橋に掲げられていた。

 小樽の路地はさらに海が見えなくとも海沿いの街独特の匂いがした。錯覚だろうか。けれども観光の為に古い石造りやレンガ造りの建物の並んだこの港町は、そのコンセプトといい、門司によく似ていた。大通り沿いに洋服の青山が建っていることさえ、どこか懐かしい光景に思えて。前日にYが、かま栄のかまぼこが美味しいと言っていたのをおぼえていた。店舗限定の揚げたてかまぼこが美味しかったので、買い足して、宿で食べようと思った。ルタオで甘いものも食べた。鮨屋がたくさんあり、どこにも観光客がいた。土産物を売る通りにはヴェネチアからの直送だという硝子器具店の数々と、地図によればオルゴール店もあった。それも地元に似ていた。観光地の俗悪な没趣味の気がして、ふいに醒めた。

 

 港は灯りに輝き、写真を撮る観光客を集めていた。多くが友人と恋人といた。観光客でひとりなのは自分だけのような気がした。

 

宿ですこし眠ったあと、空いていたすしざんまいで食べたけれど、日ごろ回転鮨を食べるのでもないから、特段美味しいのかまでわからなかった。ふつうに美味しかった。コンビニで買った地域限定のサッポロビールを飲み、夕方に買ったかまぼこを食べ、うとうとしながら読んだ詩集は殆ど内容をおぼえていなかった所為で、翌朝はまた就寝前に読んだところから読み返すことになった。